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第2回:お客様は神様です、とは?【我々は何者か、何処へゆくのか】 | PANORA


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第2回:お客様は神様です、とは?【我々は何者か、何処へゆくのか】
2024年2月16日 12:00 VTuber

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イラストはAdobe Fireflyにて「お客様は神様です、とは?」で生成
市場規模が右肩上がりで拡大し、2023年度は800億円になるともいわれているVTuberの世界。
アニメやゲームとは異なり、ファンと同じ時間軸を生きて、リアルタイムでコミュニケーションできるという新しいキャラクターの形態は、一体何が人の心をとらえて熱狂させているのか。人とキャラクターの間に立つ新しい存在をひも解くためには、おそらく哲学や神学からのアプローチも必要だろう。
そんな経緯から、バンダイナムコでキャラクターライブを手がけ、現在、英国セントアンドリュース大学大学院で神学を学ぶ鈴木直大氏に筆を取っていただいた。
*連載記事一覧 → 我々は何者か、何処へゆくのか

「キャッチーなフレーズ」にはご用心
2024年になって早々から、「おめでとう」という言葉を気軽に口にするにはためらいを感じてしまうような事柄が続きます。もちろん報道に出るような困難ばかりではなくそれぞれの難しさの中を生きている私たちではありますが、それでも、被災されたひとたちや関係者のかたたち、そして私たちに日常が早く戻ることを祈ります。
こういうとき、それが大きな困難を受けている当事者であれ、それを報道として見て暮らしている者であれ、その中に過ごしているときに時折使われる概念に「自分をなくさない」ということがあるかと思います。困難に直面すれば、恐れ、慌て、本能的に生き延びようとして、時にはその行いを「普段の自分」ではないことをしてしまい、あとで後悔することが多いからでしょう。誰にでもそんな記憶はあると思います。言い換えれば、意識しておかないと私たちは大事なこともすぐに意識や行いから消してしまう、とても脆くてあいまいな、自分、という現実に生きているのだということかと思います。
困難に面したとき、思わずやってしまったこと。その自分の判断や行いの醜さや短慮を思い出し、あるいはその結果に苦しみうつむくことは、言い換えれば「あのときああしておけば」「なぜあのとき、ああしてしまったのだろう」の気持ちをもってしまうということでもあります。それ故に、ファンタジックなフィクションではいわゆる「過去に戻る」というようなアイデアは人気なのでしょう。あのときああしておけば、ならば、そうしていればどうなっただろうかと考えたくもなります。もはや定番になった感すらあるいわゆる「転生もの」ならば、全部リセットして最初からうまいことやりたい、ということでしょうから、なるほど、それは人の気持ちをさらに捉えるのも頷けます。
ならば、避けようもない困難や後悔にまみれて暮らすこの世界に住む我々からすれば、「ここ」や「本当」ではない「どこか」あるいは「別の」というニュアンスを含む「仮想現実」という言葉は(それが、本来のvirtual REALITYという言葉の本来の意味からずれていても)そのキャッチーな響きに皆が期待して、いわゆる異世界を見せてくれる、あるいは万能を感じられる、そんななにかに捉えられるのも無理のないことです。そんなフィクションもたくさん有る気がしますし、私だって、もちろんそれを魅力的に思います。

ですが、つまりはこの「キャッチーな言葉・フレーズ」というものは、それを受け取る側の心の作用によって本来の意味やその深みではなく、その言葉を受け取る側がそもそもで期待してしまう浅くて自分に都合のいい(つまりは自分というものの限界を越えられない、学びにならない)受け取りを起こさせる可能性があります。もちろんそれは、私というものを気楽に、いい気分にさせてくれる効果をもちますが、もしそれを他者にも口にしてしまえば「自分というものの程度の低さの伝言ゲーム」の開始です。もちろんこれは、私自身にそのようなことに後で気づいて逃げ出したくなった記憶が山のようにあるから書いています(つまりはこれも「ああ、あんなことをあの時言わなかったら……」のひとつですね)。
このことについて、最近とても考える機会がありました。それは、前回このコラムで「仮想現実」という言葉をとりあげて文章を書いたあと、身近な者にこんなことを書いたよと話した際にも、またひとつ、自分の浅さに気付かされる機会があったからです。そのとき、キャッチーな言葉の誤解の例、としてその者がこう言いました。
「それって、『お客様は神様です』って言葉とかもだよね」
そのとき私は、言われたその事柄の意味がわかりませんでした。
「お客様は、神様」という概念の真意
その際、以下のurlにある内容と共に、要約した内容を教えてもらいました。文章の流れ上、先にこの「三波春夫オフィシャルサイト」にある内容を読んでいただいてから、この文章を読み続けてもらった方がよいかもしれません。
・「お客様は神様です」について(三波春夫オフィシャルサイト)
その者からの話を聞き、これを読んで、私は本当に顔から火が出る思いで過去自分がこの「お客様は神様」という言葉を用いていた時のことを思い出しました。幸いにも、このサイトの文章にもある最たる誤用例である「お客様は神様なんだからさ(だからがまんしとけよ)」のようなことは言わずに済んでいた気がしますが、どちらかというと、その誤用としての理解への反発として「ユーザーは我々のイコールパートナーであり等位置にある存在なのだから、『お客様は神様』のような概念はおかしい」などと、散々言っていた気がします。つまり、どちらにせよ私はこの言葉の意味を、私という者の幅のうちで用いていました。
 
そしていま、この説明を読んでその示唆深さを強くおもっています。神という存在のひとつの理解や位置として十分通用するこの思考は、きっとこの言葉が成立してゆく中で三波春夫氏が感じた違和感を整理して表現したものだとはおもいますが、それでも「あっ」と思うほどの凄みを私は感じました。おそらく、欧州の神学関係者にこの三波春夫氏の「芸」と「神」の関係に関する理解を話したらたくさんの意見や頷きを得ることができるでしょう。三波春夫氏は相当な読書家で勉強家だったともありますので(噂に聞いたこともあります)、学びの成果として到達した意見でもあったのかもしれません。
それにしても、この「お客様は神様です」という言葉のキャッチーさ(解説では、三波春夫氏が行った表現を当時のコメディアンが転用した際に編み出した言葉のようですが)が、受け取るものの気持ちの表面を撫でた時に、「うん!わかった!」と反射的に思いつきやすいこと(私もです!)の結果と、この言葉の解説のことを思うと、もちろんこれはこの例のみではなく、他にもたくさん、同様の例を(反省と共に)連想できます。
例えば「情けは人の為ならず」、あるいは「至言は聖人からのみ発せられるにあらず」。他にもいろいろ。それこそ私たちの日常生活でも、誰かの言ったことを私たちは、その真意のまま受け取っている保証など全くありません。いつでも何事も、それを受け取る「私」というものの認識や理解の力の範囲内でのみで捉えてしまい、それをあたかも「学んだ」というように口にしてしまいます。そしてそれが大きな伝言ゲームの結果になった例は枚挙にいとまがないですし、きっと今日も、この瞬間もそれは行われているのでしょう。そしてそれは、私たちの日々を作り上げる現実そのものとして「私」を取り囲みます。
つまり、どうも私たちにとっての「現実」とは、私たちがこの世界を「認識する」ということと相当近いようです。この三波春夫氏の例でいえば、ご本人はそんなつもりで言っていない、ということが、受け取る側の能力や理解の傾向を上限とした「私の現実」とうけとられてし、それを誰かに言えばまたさらにその「私」の現実は変容しつつ伝播してゆきます。
言い換えると、事実(今回の例でいえば、三波春夫オフィシャルサイトに記載のある解説や、過去の三波春夫氏の文章)と、現実(自分の認識である「お客様は神様です」という言葉への認識を用いた私という存在)は別の概念であるようです。ですが同時に、例えば「真意なんて知らない!私にとってはそれが現実なのだから文句を言わないでほしい、もはやこの解釈は私のオリジナルなのだ!」などというようなことも言えるのかもしれません。
もちろんこれは今回の事例にはあまりそぐわない意見ではありますが(なにせ、発言された当人の意見と記録があるのです)、とはいえ「正しい」とはなにか、というそれだけでも大変難しい概念や、加えて「居る」「有る」「本当」「真」という意見や気持ちに対して、「違う」「居ない」「無い」「嘘」「偽」とはなにかと問うことの難しさに対して「でも、私はそう感じる」という概念は大変強力な、(そのひとにとっての)現実、というものを固定する足元になります。
実は、この考え方は私がバンダイナムコ時代に担当したコンピュータグラフィクスによる等身大映像でのライブステージの手法を作り出していく時に、大変強く意識したものになります。その視点を得るには、当時、課題解決に相当悩んでいた際に、ナムコのOBであるT氏が自分自身の経験として話してくれた「なぜ、子どもたちが、粘土でできている、単純で表情も変わらない人形劇に熱狂するのか。それは、熱狂させる手法があるからなんです」という、彼との喫茶店での話が突破口になりました。
次回は、その時のエピソードも交えつつ、ではどのような仮説を立ててCGキャラクタライブの一手法を編み出したか、を書いてみようと思います。おそらく、前後編になるかとおもいます。なお、もちろんですが機密にあたることや公開すべきではないことは書きませんので、あくまで、当時の「私」がどういう思考を辿ったか、ということが中心となります。よかったら、また読んでみてください。
それではまた。

●著者紹介 鈴木直大(すずき なおひろ)
1970年生まれ。現在、英国セントアンドリュース大学(University of St Andrews))大学院 (神学)に在学中。並行して某キャラクタビジネス企業グループにて研究職・プロデューサー。
立教大学文学部卒業後、ソニー株式会社(現、ソニーグループ株式会社)に入社。主に商品企画を担当し、その後設立した自社事業ごと株式会社バンダイナムコエンターテインメントに入社。同社プロデューサーとして操演型CGキャラクタライブシステム(ツーエックス方式)を立ち上げた経験から「物理としては居ない『なにか』の存在を感じる」ことに関わる「実存感」という概念への気づきを得て、研究と発表を続けている。
X(Twitter)アカウント: @naohiros3090

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...以下引用元参照
引用元:https://panora.tokyo/archives/80491

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